かの関ヶ原の戦いでも活躍をする有名な武将なのですが、秀吉の時代に、越前国敦賀郡・南条郡・今立郡の5万石を与えられた敦賀城主です。
関ヶ原では西軍に属し、残念ながら関ヶ原の戦場で自害したとされています。
なぜ彼が西軍に味方したか、実は、ここにヒューマンドラマが。
大谷吉継が西軍に味方した理由
理由は一つということはもちろんありません。しかし、私が推したいのは石田三成が西軍に属していたため、と言う説。
もちろん、大谷吉継自身、東軍の徳川家康と親交がなかったわけではありません。
石田三成と大谷吉継、こんなエピソードが残っております。
とある大坂城で開かれた茶会。
渋茶が振舞われますが、実はこの渋茶というもの、少しずつ少しずつ、皆で回し飲みをします。
さて、大谷吉継という男、実はハンセン病であったという歴史上の記述があるのですが、この男のあとに飲むことを、皆が嫌がったといいます。
一説には膿が茶に落ちた、というような尾ひれもついているものもあり、真相は定かではありませんが、大谷吉継、辛い思いをしたようです。
そんな中名乗り出たのは石田三成。
あたかも自然に、何事もなかったかのように茶を飲み干したということでした。
この三成の態度に吉継は心底感謝をしたと言われています。
うーん、三成△。
今回はあったかいお茶の、心温まるお話、でした。
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